6月24日(日)
今日は雨が降っています。
雨の少ない今年の梅雨は、晴れると30度近くまで気温が上昇するのです。
当然、遠出の散歩にはむきません。
と言う事で、今日はシトシトの雨の中、傘をさして散歩してきました。
雨の日は雨の日しか見る事の出来ない風景が見れます。
妙にいきいきした紫陽花だとか、里芋の葉の上にころがる水滴だとか、池の面
に広がる沢山の雨の輪などなど。
さて、池田晶子氏の「人間自身」考える事に終わりなく を読みました。
天は時に人に二物を与え、明晰な頭脳と美貌を併せ持って生まれたような人で
したが、天は時に愛するものを早く吾が元へと招きよせるようです。
彼女は今年の2月、「墓碑銘」を自ら「週刊新潮」に書いて進行性のガンで
この世を去りました。
最後の最後まで「存在」の謎に挑みながら。 まだ四十代の若さでした。
「人間自身」に関しての感想はちょっと複雑です。
例えば、世のあまたの「学者」を学者、研究者、追随者、輸入業者、学閥政治
家、曲学阿世の道化、税金泥棒に分類し、本当の「学者」は指折り数えるしか
いないと喝破します。
私などはせいぜい「税金泥棒」にでも良いから、なりたかった手合いで「賢
者」として天に認められるためには後、何万回生死を繰り返したものだろうと
気が遠くなりそうです。
ただ、そうした彼女が「古い神主のお家のその方は神の言葉を伝える方、だか
らその方の言葉は神の言葉である」って。 えっ???
この論理の飛躍はなんだろう?
「古事記」を垣間見て思ったことですが、言霊によって統治されていた我ら
「瑞穂の国」は(大国の主)の時、既に大陸の権力と交代していると思うので
す。大陸が何度かこの国を懐柔しようとして使者を(瑞穂の国)に送ってよこ
したのですが、ことごとく失敗し、最後に権力者直系の「ニニギノミコト」が
使わされます。
所謂力ずくで「ニニギノミコト」はこの瑞穂の国を治めるに至ったのです。
そして大国の主は出雲の国の神社に小さく祭られてしまいます。
ただ、この国を統治するにはプリミティブ且つアニミズムを具現するものでな
くてはならず、このシステムだけは世襲された模様です。
これは明治維新の開国の時も第2次世界大戦の後でも同様で、為政者はこのシ
ステムを手放そうとはしなかったようです。
しかし、だからと言って、ポエムを語る天皇を我々の象徴として認めよう。
その人の言葉を神の言葉として我々は唱和していこう。
と言うのはどうだろう。
これまでさんざん「存在」を探り続けてきた「哲学者」の言葉とはとうてい思
えません。
ま、ともかく里芋の葉に宿った水玉でものぞきつつ、彼女の真意を
もう少し考えて私なりに「哲学」?して見ることに致しましょう。