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風うさぎの日記
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ちょっと更新。PC新しくしました。
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daria


       11月28日(土)

 図書館から借りてきた2冊の本を読み終えました。

一冊は、谷川俊太郎氏と長谷川宏氏の共書、「魂のみなもとへ」詩と哲学

のデュオーと新川和江氏の「詩が生まれるとき」です。

何気なく手にした二冊の本は、谷川氏の詩に長谷川氏が短文を書き添えた

ものと、新川氏が自身の詩に詩が生まれた時の状況などを書き添え、「随

筆と詩」という形で編纂されたものでした。

 ここの所、気が付くと女性の手による本ばかり読んでいますが、女性の

書いたものの方が、ぴったりと心に添ってくるのは確かです。

男性の書いたものは7.8割は人間として共感するところがあるのですが、

後の2.3割がどうもよく解らず、凡才を恥じて何度も読み返してみるので

すが、そのうち気絶して(?)ポトリと本が膝の上から落ちてしまうこと

が度々です。

特に男性がうたう女性は、女性一般の時はもとより、恋人をうたう時です

ら、絵にかいた餅のようで(あまりに観念的すぎて)心を滑り落ちて行っ

てしまいます。

もっとも、同じ女性をうたうにしても,うたう対象が母親という存在だと

少し事情が違うようで、秀逸な歌が多いと思うのは面白いものです。


男性の詩人でも谷川俊太郎氏の詩を多く手にするのは、彼の人間的な品の

よさというか、育ちの良さというか、人生に対する居ずまいの良さという

か、そんなところが気に入っているのかもしれません。

新川氏は女性ですが、茨城のり子氏の書くものに比べると、やや硬い感じ

がします。

男性文化の中で築き上げた知性が勝っているようで、女性の感性を男性的

論理構成の中に展開しているように思われます。

しかし、一九二七年生まれの彼女は今年たぶん80歳になられるのだと思い

ますが、戦前、戦後を「詩」という言葉をかざして戦ってきたのだと思う

と、頭が下がるばかりです。

さて、さて燈火読書に親しむべき候、次は何を読みましょうぞ。

今日の写真は、「皇帝ダリア」です。

身の丈2~3メートル、花の直径20センチぐらいの巨大なダリアです。

夜の森林公園での撮影です。

kuma


      8月12日(水)

 一面、空間を埋め尽くすかのような油蝉の声に、時折混じるミンミン蝉

の声が遠近感を与えてくれます。

それにつくつく法師がふと聞こえ、部屋の隅で鉦たたきが鳴くようになり

ました。

立秋が過ぎると、時の変わろうとする姿が目をつむっていても感じられま

す。 否、目をつむるからこそ感じられるものがあるのかも知れません。

しかし、台風一過、久しぶりの青空でした。

それで、ふと忘れていた言葉を思い出しました。

  残暑お見舞い申し上げます。

 一昨日、長女さんがドイツの旅から無事帰国しました。

成田上空は台風接近で荒れておりましたので、心配していたのですが、雨

一つ遭う事も無く帰宅し、ひと晩しゃべり、飲み、眠り、もう少し旅を

続けると言って又出かけてしまいました。

どうでも良いけど、水難、空難、人難かいくぐって、帰って来て下さい。

無事帰ってビビアンの世話を見てくれないと、19日からの私たちの旅行

が実現しません。

写真は長女さんのお土産です。

christmas-tree


       12月27日(土)


 今、林芙美子の詩を読んでいます。

林芙美子の名は知っていても、林芙美子の書いたものは何一つ読んだこと

がありませんでした。まして詩など。

森みつ子が演じる「放浪記」をTVで見て、何か軽く分かった様な気になっ

ていたのです。

林芙美子が詩人であった事を今更のように知って驚いているしまつです。

彼女は明治36年(1903)に生まれ昭和24年(1951)に亡くなるま

での48年の人生を生きた人です。

彼女の生きた時代の文学的背景を思えば、プロレタリア文学かアナキズム

、ダダイズムのいずれかの世界に流れる傾向があった中で、そのいずれの

分野にも属さない作家であったようです。

詩の作風は、どちらかと言えばジプシー的で、生活の苦悩をうたいながら

も開放的で、明るく大らかなのです。

しかし彼女の詩は、この時代のどの潮流にも属さなかった為に、どうやら

文学会から冷遇され黙殺された嫌いがあります。

この年になって(図書館の片隅で)林芙美子の詩に出会う事が出来たのは

実にラッキーでした。

少し林芙美子を学んでみようと思います。

 さて、写真は昨日片付けた我が家のクリスマスツリーです。

そろそろお正月を迎える用意をしなければなりません。


momizi-kenmin

         11月8日(土)

 一昨日、とうとう今年も炬燵を出してしまいました。

と言うか正確には出してもらったわけで、自分で出した訳ではありません

。庭の木を剪定したり、車を走らせたり、買い物を運んだり、こうした事

は全てJ氏がやっていることで、万一私だけがこの世に残っても途方に暮

れるだろうと、この頃思います。

秋深い秩父の山の九十九折を、多少荒っぽい運転で毎度登ってくれますが

そのうち、運転できなくなる日が来るのでしょうか。

紅葉した山の中にいるとまあ、ついそんなことも考えてしまうのですが

しかし今は今を、しっかりと生きていくことが大事なのかも知れません。

今、図書館から借りた「法華経はなにを説くのか」 久保継成

を読んでいますが、この本によりますと「さとり」とは仏だけが目指す遠

く高いところに在るのではなく、日々の私たちの「気づき」の中に在る

のだと云うような事が書かれているようです。

人は何かに気づいたら、その人だけに備わった手段で必ず生活に反映させ

ていく事が大事なのだそうです。

つまり宇宙の真理であるところの「ブラフマン」を同じ宇宙を内に宿す

個としての「アートマン」が黙想によって気づいたなら、それを人々の

為に表現していくのが、いわゆる菩薩行なのだと言うことでしょう。

「気づく」にはやはり立ち止まり、静止し黙想することが必要なようです

。ここのところ読んだ本の全てにそう書いてあったのでやはりそうかと思

います。   立ち止まり私の耳に聞こえてくるものに心を傾ける。

まずはこんな所からはじめますか。





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