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風うさぎの日記
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tani


       6月8日(金)

 銀河の丘を超えて散策しますと、鴬と、不如帰がしきりに鳴き交わしている

のが聞こえます。  谷は底を流れる小さな水の流れも見えないぐらい夏草に

覆われてしまいました。

そんな緑の谷を何やら真っ白にふわふわしたものが、幾つも幾つも谷から湧き

上がっては流れていきます。

精霊というか、けさらんぱさらんというか、なにかそんなものです。

さて、「14歳からの哲学」ですがこれはなかなか凄い本でした。

ア・プリオリとかアポステオリとかブラフマンとかアートマンとか、空とか色

とかそんな言葉を一切使わず、噛み含めるように考える道筋、存在、生と死

宇宙と科学、善と悪etc.etcを説いているのです。

「41歳からの哲学」に見受けられるようなジョークもブラックユーモアも

抜きで、これからの若い魂に正面から真摯に向かい合ったものです。

14歳という年齢でこうした人生の先達に出会えた人はきっと幸せです。

私などは考える事の煩雑さに負けて、放棄してしまった「思い」が累々として

人生も終わり近くなって来ていると言う有様です。

まあ、考えるに遅すぎる事は無いと言いますから、これからせいぜい頑張る事

と致しましょう。

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sakadonokesi

         5月29日(火)

 さて、数日前から池田晶子氏の「41歳からの哲学」を読んでいます。

哲学ですから内容は「生きる事とは」とか「死ぬ事とは」とか書いているので

すが、死はあくまで個人的なことな故、自殺をもって責任を取ることは出来な

いとのくだりがあって、そういう意味から言っても某大臣の責任の取り方はい

かがなものでしょうか。

問題の所在を闇から闇に葬っただけで、責任を取ったとは言い難いからです。

この度初めて池田氏の本を読んで感じた事を誤解を恐れすに言わせて貰えば、

思春期の真っ只中に1999年の末世思想に洗礼を受けた人間の匂いを感じま

す。  我々団塊の世代には我々の世代の匂いがするように、私はこの時代の

人々は我々には無い虚無的な「何か」を背負っているように思います。

又、私などは人の人生や道端の花や石から、演繹的になにやら形而上学的なも

のを汲み取ろうとする訳ですが、哲学者であるところの彼女は、多くのロゴス

から天才的に学んだ形而上学を帰納的に展開してくるもののようです。

「人間なんぞ たかが虫ケラ」などという過激な言葉の見出しが目に飛び込ん

できて、(そうかも知れないけどそう言ったら身も蓋も無いじゃない)とか思

ってしまう所も多々有るわけです。

まあ、もう少し「14歳からの哲学」や「新.考えるヒント」などをも読んで

彼女の思索の深さを探ってみましょう。

 写真は若葉のポピー畑です。



bibi-5

       12月16日(土)

 「猫びより」を久し振りに買いました。

この頃は2月に一度の発行になっているので、そう毎回購入とはいかなくなっ

ているのですが、今回は2007年の猫カレンダーが付録に付いていたので、

ついつい買ってしまいました。(おばさんはおまけに弱いのです。)

さて、本を開くとスタジオジブリのプロデユーサー、鈴木敏夫氏と飼い猫「グ

ッチ」、「ゴロー」の特集が。

特に8~9キロはあるという「ゴロー」は(宮崎吾郎氏からもらった名前では無

いとの事だが)噛み癖があってかなり狂暴らしいのです。

取材スタッフの一人が鈴木氏の忠告を忘れて、撫でているとさっそく腕をガブ

リとやられてしまったらしい。

別のコーナーで「突然飼い主を攻撃する子猫」を読みますと、猫がどこまで人

間に触る事を許すかは、子猫の時にどれだけ人と触れ合ってきたかで決まるの

だと書いてありました。

そして、なんと子猫の社会化時期は生後2~7週で決定づけられるとか、、。

つまりこの時期に人と親しい関係を持つ事が出来た猫は、人間に攻撃性を持つ

事が少ないのだそうです。

反対にこの時期に人間に攻撃されたりの辛い経験を持ちますと、触られる事に

極端な警戒心を持つようになるのだとか。

たった2~7週の、ヨチヨチ歩きの頃の心の傷が、その後の性格に大きく拘っ

てくるのか思うと、恐ろしい限りです。

噛み癖のある猫は、長い時間をかけてゆっくりと警戒心をといてやる事が肝心

との事です。

なるほど、なるほど、、、。

写真は窓辺の植物の陰でひなたぼっこをするビビアン。
nanten

    11月29日(水)

 さて、先日「山の彼方」の詩を確認するために「海潮音」の復刻版を本箱か

ら引きずり出しました。

これによると、どうやら「海潮音」は明治38年10月に発刊されています。

旧かな使いで漢字も古く、ルビこそふってあるけれども、なんとも読みずらい

内容になっています。

西洋の詩と古めかしい日本語とのコラボレーション。

これがとても新しい時代があったのですね。

ちなみに宮沢賢治氏は明治36年に8歳で小学校にあがっています。

さて、「海潮音」を再び本箱に戻す前に、ついでだから「枯葉」を(迷)現代

訳してみようかしら。

最も、私的には「枯葉」よりもう少し、手前で足掻いている様には思うのです

けれども、ある意味枯葉が旬(?)なものですから。


  窓ガラスに残る黄昏の光に呼び止められ

  窓辺近くもたれてはみたものの

  溜め息のようにもれ来るビオロンの悲しい調べ。

  私の体に忍び込み

  私の心をかき乱し

  なんという、うら悲しさ。


  折りしも教会の鐘の音が

  辺りの静寂を破って鳴り渡る。

  ああ、ただでさえ淋しいこんな夕暮れ時に

  人の世と別れて旅立つ人がいるらしい。

  さまざまの思い出に別れを告げて。


  プラタナスの青い木漏れ日の下を

  友と肩を組みながら

  たわいない話に笑い転げ、通り過ぎた日もある。

  セーヌの川のほとりで

  薔薇色の頬の少女と恋を語りあった事もある。

  遠い日の思いで。

  全て遠い日の。


  日は落ち

  石畳の上には枯れ落ちたプラタナスの葉が

  あてどなく風に飛び散っている。

  あの青ざめた枯葉こそ

  今の私の

  姿そのもの。

  

         ベェルレーヌ「枯葉」より

  
  
  
06yamanami

   11月22日(水)

 先日、長女さんとカール・ブッセの「山の彼方の空遠く」の原文はどうなっ

ているのだろうという話になった。

「海潮音」に載せられている上田敏訳のこの詩を、子供心に諳んじて幾星霜

今、改めて思うに何か解かったようで解からない詩だと言うことに気が付い

た。が、確かに今更人に聞けない話ではある。

ともかく、原文はどうなっているんだとの話になり、長女さんが調べてくれる

事になりました。

そして、一昨日そんなことはすっかり忘れていた私に長女さんのメールが届き

ました。

そして、ああ何たる事、油断しておりました。

カール・ブッセ氏はドイツ人だったのです。

原文は勿論ドイツ語。  そして人間学んだ事の無いものは何一つ解かるもの

ではないんですね。

と、言う事で今回は私の名(迷)訳の「山の彼方の空遠く」です。

 どっかに行けば幸せが見つかるかも知れないって

 みんな村を後にして出て行くから

 おいらも若いときふら~っと山を越えて旅にでてみたさ。

 それで「幸せ」はみっかったかって?

 いいや、田舎もんにゃあ世間の風は冷たくて

 毎日、食うや食わずの生活に泣き暮らすしまつよ。

 結局老いさらばえてまた一人村に戻ってきちまった。

 なあに、もおっと遠いお山の向こうならね、あそこならきっと「幸せ」が

 有るにちがいないさ。

 遠い空の向こうでおいらを呼ぶ声がこの頃よく聞こえるんだよ。

 あそこならね、きっと本当の幸せがあるに違いないよ。


室生犀星氏の「小景異情」の中に

 ふるさとは遠きにありて思ふもの

 そして悲しくうたふもの

 よしや

 うらぶれて異土の乞食となるとても

 帰るところにあるまじや

 ひとり都のゆふぐれに

 ふるさとおもひ涙ぐむ

 そのこころもて

 遠きみやこにかへらばや

 遠きみやここにかへらばや

と相対するような詩がある。

でも、「山の彼方に」の詩の方が帰る故郷がある分だけ幸せなんですかね?




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