忍者ブログ
風うさぎの日記
[64] [65] [66] [67] [68] [69] [70]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

 「夕顔」といえば源氏物語の夕顔が頭に浮かぶ。

六条の御息所のもののけに祟られ、暗い山中の寺の中で儚く死んでしま

う女性である。

源氏を取り巻く女性たちの中でも、とりわけ薄幸そうな身の上のようにみえる

が、当代きっての美男、源氏と頭の中将の2人に愛され、

頭の中将とのあいだにもうけられた「玉鬘」は後に栄華を誇る源氏に娘として

大事に迎えられたのだから、花としては白く楚々として儚げに見えても、夕顔

とは実はしっかりと実を結ぶ類いのものなのかもしれない。

さて、前置きが長くなったが、実は隣人から大きな夕顔の実を頂いた。

大きな南瓜のような、冬瓜を円くしたような実で、2人では食べきれないだろ

うからといって半分にして下さった。

それでも冷蔵庫には入りきれないので、4分割して4分の1はその日のうちに

オリーブオイルで炒めシーチキンと共に煮込んでしょうゆ味で食べた。

次の日は薄味で煮て片栗粉でとろみをつけてみた。

又次の日は同じようにだし汁で煮たものにとき卵を流してみた。

いずれもさっぱりして食欲減退の暑さの折、大変美味しくいただく事が出来ま

した。

最後の残りは今宵、冷たいスープ仕立てにでもしょうかと目論んでいる。

W様、本当にご馳走様です。


     
PR
せみ

            短い夏を惜しむように蝉は懸命に鳴き続ける。

現代は夜でも明かりが消える事がないので、深夜まで蝉が鳴き止む事がない。

おそらく秋の虫にバトンタッチするまで、命を燃やし続けるのだろう。

台風一過の昨晩は見事な満月で、妖しいぐらいの月影と蝉の声のもとで眠りに

ついた。

   (さだ・まさし氏は長崎でのコンサートを今年で最後にするのだとか)


術後3ヶ月、病院に行ってきました。

とりあえず今のところ問題は無いとの事。


  (ね、どうして今年で止めちゃうのだろう?)

  (どうしてとか、残念とかお前が言うべき事か?)

想念が月の光に流れ出る前に、時計が明日を告げる前にせめてわたくし個人の

祈りを長崎に捧げましょう。

   クランボンの泡のような祈りよ長崎へ



     

  

 人間を閉じ込めておくのに鉄格子はいらない。

細い銀の雨を降らしておけば人は部屋の中に封じ込められ、やがて腐ってい

く。とまで思ってしまった今年の梅雨空だった。

春を失してしまった私は、季節に疎外された感さえあってなかなか戸外に出る

事も出来ずに居たが、さすがに7月も20日過ぎの雨は辛いものがあった。

 気分を変えに脱出した長野も激しい雨であったが、幸い山荘を借りた白馬

の方は川の氾濫や土砂崩れも無く、時折は日も差す天候に恵まれ文字どおり

緑滴る風景の中を散策する事が出来た。

 誕生日は百万灯祭りで賑わう川越で家族が祝ってくれた。

夏の暑さが目覚めたような日であった。

昨日は広島の原爆忌。

戦後生まれの私は、子供と共に「丸木美術館」を訪れたり、「はだしのゲン」

「ひめゆりの塔」などの映画で追体験するしかなく、子どもには当時悪夢にう

なされて眠る事が怖かったと、今でも時折言われる。

それでも、戦後61年が経ち、平和への熱い思いが風化されていっているよう

で少し心寒い思いをする事がある。


 突然やって来た夏に自然界はなにやら慌てふためいているようだ。

遅い夏と早い秋がごちゃ混ぜになったような2006年 盛夏。


   法師蝉 鳴き初む朝の原爆忌
                   hakubakyoukai
■■■
一年間の闘病生活を終えてプク(猫)が死んでから1ケ月になろうとしている。台風直後の荒川を越えてとある動物病院に保護されていた子猫をもらってきたのが一昨年の十月だった。
彼女に症状が現われ出したのは半年後の春先辺りからで、歩行困難と排便排尿困難が主たる症状だった。
獣医の診断は進行性脳性麻痺というもので、治癒は難しいだろうとのことであった。
確かに、週1回の通院で注射や投薬をしてもらったが、症状は少しずつ悪くなる一方であった。
彼女が激しいテンカンの発作に見舞われ、病状が急変したのは昨年の11月初めだった。
その日以降、彼女は立つ事も、無論歩く事も、自ら食事をする事も、排便排尿も不可能になった。
動物病院をかえて診察してもらったが、やはり診断は変わらなかった。
だが、ほとんど食欲すら無くしていた彼女がその病院で出してくれた特別療法食をよく食べるようになった。
すりつぶした薬を混ぜ込み、抱き上げてスプーンで与えるのである。
2~3日に一度の点滴もはじまった。
便と尿の出し方も教わり、寝たきり猫となったプクとの生活が私の生活の全てとなっていった。
昼は私のベットが彼女のベットになり私は側の椅子で本などを読みながら彼女を見守った。
夜は私がベットに眠り、彼女が椅子に眠った。
夜、目を覚まして彼女の寝息と体の温かさを確認して安心して又眠った。
そうこうして年も改まり、春浅き頃、私に子宮がんの診断がくだった。
検査入院の十日間と手術のための3週間、プクの世話は次女が引き継いでくれる事となった。
母親の入院と寝たきりの猫と、自分の猫と旦那さんのお世話が、妊娠4月のつわりで苦しむ彼女の肩に圧し掛かっていったのだ。
次女は本当によく頑張ってくれた。
なんとか退院して、再びプクとの生活が戻ってきたが、再びプクを襲った激しい発作の後、あれだけ一生懸命食べようとしていた餌を全く受け付けなくなった。食べるとお腹も痛むらしいのだ。
発作の回数も多くなってきた。
本来鼻腔から流し込むという水のような餌が処方された。
生きとし生けるもの、自らの意思で食べなければ終わりだよ。
後は長い眠りが助けてくれるかも知れないけど、そうする?
最後の2~3日、繰り返す発作をなだめながら、私はプクに話し掛けた。
それは、この度の入院で私が深く学んだ事のひとつでもある。
言葉を口にすると耐え切れずに目から涙が流れ落ちる。
その涙を感じて、プクが目を閉じたまま私を見上げた。
いつになく優しい表情を浮かべて、私が泣くたびに私を見あげる。
「いいよ。そうしょう」
それが彼女の答えであった。
私の手術から丁度、1ケ月後の6月9日彼女は何一つ抵抗することなく安楽死の道をたどった。
彼女は呼吸を止めてもずつと暖かかった。
その温もりの記憶だけが手のひらから消えない。
私にいかに生きいかに死ぬかを教えて彼女は去っていった。

再び日記をつけ始めるにあたってやはりこの事を無視して通れないと思い書き記すことにした。




お地蔵様日本は何処に行っても鳥居とお地蔵様がある。

仏様もいろいろで、衆生の処まで降りてきて私たちのすぐ側に居てくださるの

がお地蔵様なのだから、沢山あちらこちらに居て下さるのでしょう。

お地蔵様は、赤いお帽子と涎掛けを掛けていらっしゃるのが常である。

お地蔵様は皆とても良いお顔をしていらっしゃる。

お地蔵様に心を寄せる人の心が理解できる年になった。

幸せばかりでは人は成長しないようだ。

ところで、昨日の慈眼寺の六地蔵様は何故か個性的なエプロンと帽子を着けて

いらっしゃった。


忍者ブログ [PR]
カレンダー
10 2024/11 12
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
フリーエリア
プロフィール
HN:
風うさぎ
性別:
非公開
趣味:
読書・猫。
自己紹介:
のんびりと暮らしております。
こちらでは本の感想などを徒然なるままに書いていきたいと思います。
バーコード
ブログ内検索
最古記事
(03/26)
(03/28)
(03/29)
(03/30)
(04/01)