11月29日(水)
さて、先日「山の彼方」の詩を確認するために「海潮音」の復刻版を本箱か
ら引きずり出しました。
これによると、どうやら「海潮音」は明治38年10月に発刊されています。
旧かな使いで漢字も古く、ルビこそふってあるけれども、なんとも読みずらい
内容になっています。
西洋の詩と古めかしい日本語とのコラボレーション。
これがとても新しい時代があったのですね。
ちなみに宮沢賢治氏は明治36年に8歳で小学校にあがっています。
さて、「海潮音」を再び本箱に戻す前に、ついでだから「枯葉」を(迷)現代
訳してみようかしら。
最も、私的には「枯葉」よりもう少し、手前で足掻いている様には思うのです
けれども、ある意味枯葉が旬(?)なものですから。
窓ガラスに残る黄昏の光に呼び止められ
窓辺近くもたれてはみたものの
溜め息のようにもれ来るビオロンの悲しい調べ。
私の体に忍び込み
私の心をかき乱し
なんという、うら悲しさ。
折りしも教会の鐘の音が
辺りの静寂を破って鳴り渡る。
ああ、ただでさえ淋しいこんな夕暮れ時に
人の世と別れて旅立つ人がいるらしい。
さまざまの思い出に別れを告げて。
プラタナスの青い木漏れ日の下を
友と肩を組みながら
たわいない話に笑い転げ、通り過ぎた日もある。
セーヌの川のほとりで
薔薇色の頬の少女と恋を語りあった事もある。
遠い日の思いで。
全て遠い日の。
日は落ち
石畳の上には枯れ落ちたプラタナスの葉が
あてどなく風に飛び散っている。
あの青ざめた枯葉こそ
今の私の
姿そのもの。
ベェルレーヌ「枯葉」より
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